学会の歩み
元遺伝研、元武田薬品工業株式会社
(2019年5月 寄稿)
1.はじめに
変異原性あるいは遺伝毒性は、毒性学の中でも1970年以降に確立された新分野の毒性の一つである。
化学物質の中には、アルキル化剤のように、突然変異を起こすものがあることは、1940年代以前に既に知られていた。しかし、当時は特別な化学物質による特殊な現象として遺伝学者の研究範囲に限られていた。第二次大戦後、原爆の後遺症も含め、放射線の遺伝的影響に関する研究が進むにつれ、化学物質によるヒトへの遺伝的な悪影響についても、次第に懸念されるようになった。
1960年代に入ると、この問題は化学物質全体についての評価対象にすべきとの考えが強まり、欧米では公的研究機関等で基礎的研究が始まった。1969年に米国では、農薬について変異原性試験(遺伝毒性試験)の実施が提唱され、1970年には医薬品についても同様の勧告が出された。
このような国際的な動向を受けて、わが国でも学会が設立されることになる。そこで、1960年代後半の遺伝毒性研究の黎明期から、学会が設立されて研究活動が軌道に乗るまでの約20年間の出来事について、書き留めてみる。ただし、当時の資料はほとんど散逸し、記憶頼りのことも多い。重要な事柄の欠落や間違いなどがあれば、ご指摘頂いた上で修正させて頂きたい。
2.遺伝毒性研究の歴史(1960年代)
2-1.遺伝子・染色体研究の海外の状況
1960年代に入ると、ある種の化学薬品やウイルス感染によって、染色体の切断や転座が起こることが、よく知られるようになった。例えば、1967年には強い幻覚作用を持つLSD(リセルギン酸ジエチルアミド)のヒト染色体切断作用が3報続けて報告され、LSDの濫用が問題となっていた米国で大きな問題となった(菊池, 1968)1)。
こうしたことを受け、米国では1969年に農薬について変異原性を評価するために、優性致死試験、宿主経由試験および in vivo 染色体異常試験の3種を実施するよう勧告が出され、1970年には医薬品についても同様の勧告が出された。
また、1969年には、米国環境変異原学会(Environmental Mutagen Society (EMS)) が、1970年には欧州EMSがそれぞれ設立された。また、米国EMSからは Newsletterが発行されるようになった。
医薬品の突然変異誘発性に関し、WHO科学グループの技術報告書(1971)は、評価(evaluation)と試験(testing)を区別すると共に、結果の解釈(interpretation)について、特にrisk/benefit assessment を取り上げた、総合的な勧告であった。試験方法については、原則として哺乳動物を用いることとし、特定の方法は示さず暫定的に、優性致死試験、in vivo 細胞遺伝学的試験(染色体異常試験)、宿主経由試験等が示唆されていた。
2-2.遺伝子・染色体研究の国内の状況
わが国では、原発被爆国として、放射線の遺伝的影響についての研究が、戦後行われるようになった。このため、微生物、植物、昆虫、哺乳動物培養細胞、あるいはマウスなどを用いた基礎研究が大学等で実施されていたが、あくまでも放射線の研究に限られており、化学物質についての研究は殆んどなされていなかった。
この状況に転機が訪れたのが1968年である。この年に東京で開催された第12回国際遺伝学会議では、環境化学物質の突然変異誘発性が新しい研究テーマとして話題となった。
国立遺伝学研究所(遺伝研)の田島彌太郎先生(当時の形質遺伝部長、後の所長)は我が国でも、化学物質の突然変異誘発性について組織的な研究体制構築の必要性を痛感されていた。田島先生は長年にわたる放射線遺伝学の研究から、化学物質の突然変異誘発性に対しても強い危機感を持たれていたからである。遺伝研での私(菊池)の所属は人類遺伝部であったが、田島先生に命じられて、この国際会議の総務委員としてプログラムを担当しており、田島先生からお話を伺うことも多かった。
3.日本環境変異原学会の設立(1972年~)
1970年には田島先生(遺伝研)が文部省特別研究班(通称田島班)を組織され、「化学物質による突然変異誘発性の研究」として、組織的な研究が開始された。この年に私の遺伝研からの転職が決まり、田島先生に「これから武田薬品で変異原性試験に取り組みます」と申し上げたところ、激励して下さり、研究班の会合にも参加させて頂くことになった。そして、この田島班が母体となって、1972年10月に東京虎ノ門の教育会館において、日本環境変異原研究会(Japanese Environmental Mutagen Society, 略称:JEMS、後の本学会)の設立総会が「第1回環境変異原研究会講演会」の名称で開催された。
第1回環境変異原研究会講演会(昭和47年10月21日、国立教育会館)
挨拶 世話人代表 田島彌太郎(遺伝研)
3-1.当時の国内の研究グループが実施した研究
JEMS 発足当初は、田島先生はじめ、遺伝研の賀田恒夫、土川清、黒田行昭、吉田俊秀の諸先生、近藤宗平教授(阪大)、外村晶教授(東医歯大)、さらに設立総会で講演された先生方が中心となって活動していた。その多くが遺伝学をベースとする研究者であった。この中から、学会に影響を与えた研究をいくつか紹介する。
・賀田先生は、変異原のより簡便な検出系として、枯草菌を用いてDNA 損傷を検出する "rec-assay"を開発され、日本では1980年代まで細菌による復帰変異試験と併用されるようになった。
・外村教授は、食品添加物として汎用されていたAF-2が、in vitro 染色体異常試験で強い染色体切断作用のある事を発見した。1971年に外村教授のもとを訪れた時に、顕微鏡で見せて頂き、驚いた記憶がある。このことが、学会は無論のこと、社会的にも強いインパクトをもたらし、本学会の発展の基礎となったといえる。
・土川先生は、マウス優性致死試験を、X 線の研究で用いた経験から、化学物質の研究にも有用と考えられ、優性致死試験の普及に努められた。
・変異原性の評価法に関しては、岩原先生が食品関連物質について、白須先生が農薬について、それぞれ検討を始められていた。
1972年の時点での、受託研究機関と民間企業の状況について触れておく。
受託研究機関では、残留農薬研究所と野村総合研究所等が変異原性試験にいち早く着手していた。製薬企業では、数社が変異原性試験の実施に踏み切ったかあるいは実施計画中であった。そこで、一例として、武田薬品についてお話しする。
第1回環境変異原研究会講演会では、民間企業からは武田薬品工業・中央研究所の梶原彊博士が講演された。梶原博士は医薬品の特殊毒性の日本の状況について、かねてより強い危機意識を持たれていた。1960年代には、いち早く医薬品の催奇形性試験を実施された。さらに、変異原性についても欧米の動向を調査され、1969年に私に協力を求められた。梶原博士は、私の恩師の牧野佐二郎教授(北大)の友人であり、1963年には私の米国留学先に訪ねて来られたこともあり、何回かお目に掛かっていた。また、私の先輩も武田に勤めていたことから、梶原博士のお誘いを受け、1970年7月に遺伝研から武田薬品に転職した。入社後直ちに 米国やWHOの勧告に従って、優性致死試験、in vivo 染色体異常試験及び宿主経由試験の3試験法の組み合わせにより医薬品の変異原性試験を開始した。
3-2. 試験法の研修会
こうして、日本にも田島先生を会長とするJEMSが誕生し、変異原性に関する学会活動が始まった。翌年の1973年5月30日~6月1日には、JEMSと野村総合研究所の共催で、「薬物の突然変異検出法についての研修会」が鎌倉で開催された。当時、このような実技を伴った研修会は世界的に見ても珍しく、田島先生をはじめJEMS執行部の諸先生が変異原性試験の普及と試験手技のレベルアップにいかに熱心であったかを物語っていた。私も講師の一人として、優性致死法や宿主経由法の講義や実技を担当した。3-3. 学会活動
1973年9月には、JEMS の第2回大会(研究発表会)が三島市の遺伝研で開催され、その後、毎年10~11月に大会が開催されるようになった。JEMS の活動は軌道に乗ったが、その頃の研究発表の多くは、大学や国公立の研究機関からであった。医薬、農薬、食品等の民間企業からの参加は徐々に増えてはいるが、発表は少なかった。製薬企業に比べると、受託研究機関の対応は早かったと言える。
ここで、1970年前後の毒性関係の学会の雰囲気をお伝えしておこう。毒性メカニズム解明や、新検出系の研究が学会発表として価値があり、新薬の陰性結果などはあまり発表する意味がないとする風潮も当時はあったようである。このような状況を打開するためには、学会を単に発表の場としてだけでなく、同じ分野の試験・研究を行っている産の会員同士との情報交流の場として活用し、研究のレベルアップを図る活動が重要で、近い将来には産・官・学の会員が一体となった学会運営を目指したいと考えた。この目的のために、1980年前後には下記の分科会が結成された。
【優性致死試験研究会】
優性致死試験は実験規模も大きく時間もかかる。しかも、各研究機関では背景データも十分ではなかった。土川清先生(遺伝研)とお会いする度に打開策について相談していた。第6回JEMS(1976)の時に、土川先生を中心として優性致死試験の研究会を立ち上げることが決まり。1977年2月に7機関から十数名が三島に集まり、「優性致死試験研究会」がスタートした。土川先生以外は、ほとんどが企業または受託機関の研究者であった。この研究会はJEMSの分科会として承認され、土川代表幹事を中心に1982年まで8回の集会を開催した。
【小核試験研究会】
1980年、石館基先生(国立衛試)と私が世話人となって小核試験の確立を目指して発足させた。小核試験は、小核誘発と染色体異常との関係を実証すれば、in vivo 試験として極めて有望であり、石館先生も小核試験の重要性は十分認識されていた。ところが、会を開いてみると、優性致死試験や小核試験などのin vivo 試験を実施している研究機関はほとんど民間に限られており、二つの分科会の出席者も重複していることが判明した。そこで、1981年の第10回JEMSの時に、土川、石館両先生を囲む有志の会合で、両会を統合して新たな研究会を作り、in vivo試験の研究の促進と普及、共同研究の推進など、効率的運営を進めることで、出席者の合意に達した。
【MMS研究会】
1982年2月、設立準備会が開かれた。出席者は、土川清(遺伝研)、渋谷徹(食薬センター)、祖父尼俊雄、林真(国衛研)、島田弘康(第一製薬)、山本好一、菊池康基(武田)の7名。新しい会の基本方針を定め、優性致死試験研究会と小核試験研究会を発展的に統合する形で、ここに「哺乳動物変異原性試験研究会、Mammalian Mutagenicity Study Group, 略称MMS研究会」がJEMS の新たな分科会として誕生した。同年5月には第1回会合を開催し、土川先生を会長にin vivo試験系についての活動が開始された。この研究会の大きな特色は、会員には限られた大学の研究者しかいないことであった。大学の研究室では、費用も時間もかかる動物実験はしたくてもできなかったのであろう。
その後、MMS研究会は哺乳動物を用いる各種変異原性試験について検討し、この分野の研究の発展に務めるとともにヒトへの安全性評価に寄与することを目的とし、多くの共同研究を進めていく。土川先生と国衛研・変異遺伝部を中心に民間の研究機関が集まって、in vivo(あるいはin vitro)の哺乳動物試験系の確立・普及に尽くした功績は大きい。また、小核試験を始めとする種々の試験の共同研究を発足当初から継続して実施しており、その成果は数十報にのぼり、いずれも国際誌に投稿され海外でも高く評価されている。製薬企業をはじめ多くの民間企業あるいは受託研究機関の研究者が意欲的に取り組んだ成果である。
【BMS研究会】
1975年、Ames博士らが「微生物を用いる変異原性試験手法(Ames試験)」を論文発表した。国内で使用されている化学物質は数万種あり、発癌性の短期スクリーニングによる効果的な管理手法が求められていた。日本では1977年に労働安全衛生法を改正し、Ames試験によるスクリーニングを義務付け、強い変異原性物質を潜在性発がん物質とみなして管理する「みなし管理」の仕組みを世界に先駆けて確立した。1986年には旧労働省の変異原性試験精度管理事業が始まった。変異原性試験の受託機関から仲間と意見交換ができる場が欲しいとの意見を受け、松島泰次郎博士の呼びかけで、受託機関の微生物変異原性試験の実務者が集まり、「微生物変異原性試験連絡協議会(Ames試験連絡会)」が発足した。これがBMS研究会 (Bacterial Mutagencity Study Group、微生物変異原性試験研究会)の前身である。1989年11月の第5回Ames試験連絡会からは受託機関以外の機関も参加できるようになった。1995年にJEMSの分科会としての位置づけを明確にし、同11月にJEMS/BMS研究会という名称で第16回定例会が開催され現在に至っている。精度管理事業の結果を受けて、実験条件に関する共同研究を実施し、その成果をフィードバックすることで、日本の微生物変異原性試験の品質が世界トップレベルにまで引き上げられた。
3-4. 設立当初のJEMSに起こった大きな問題、AF‐2事件
1973年9月、JEMS の第2回研究発表会が三島の遺伝研で開催された。プログラムを見て驚いた。演題数は全部で17題だったが、後半の7題がAF-2 (furylfuramide,(Z)-2-(2-furyl)-3- (5-nitro-2- furyl)prop-2-enamide)という、当時食品保存料として使用されていた食品添加物に関連するトピックで占められていたのである。当時、汎用されていた多くの食品添加物の安全性に疑念が生じ、大きな社会問題となっていた。最も頻用されていた食品添加物の一つであったAF-2についても、安全性見直しの一環として実施された染色体異常試験で陽性結果が出たことから、学会の一大トピックとして取り上げられた。この時のAF-2関係の発表をまとめてみると、陽性結果は、(1)枯草菌レックアッセイ(rec assay)(2)大腸菌WP2hcr-株の変異誘発性試験、(3)培養細胞での染色体異常試験等で報告された。一方、サルモネラ菌のAmes株TA1535、TA1537、TA1538での復帰変異試験では陰性であった。また、カイコの試験では明瞭な陽性結果はなかったと記憶している。なお、第3回JEMSでは発表23題中11題がAF-2関連の発表であった。AF-2に関しては,「AF-2物語」として別枠にまとめて記述する。3-5. 研究動向の推移
田島先生が書かれた本「環境は遺伝にどう影響するか」(1981)2)によると、先生に届いた米国EMS設立通知状の添え書きには「人類の遺伝的健康を守るために・・・」と書いてあったそうで、米国でもin vivo系が重視され,体細胞に起こる突然変異よりもむしろ生殖細胞に生じる突然変異を重要視していたようであった。田島先生のこの著書の表紙には、Environment と Heredityの2字が配されており、田島先生も変異原研究に際しheritable mutation を念頭に置かれていたことが伺える。ある時、遺伝研での評議員会の後、賀田先生に呼び止められ、少し話をしようと3名ほどが研究室に案内された。話題は、これからの変異原研究の方向についてであった。いろいろ議論は弾んだが、ヒトでheritable mutation の結果としてどんなことが起こるだろうかの話題に移った。「おそらく、遺伝性疾患や奇形児が目に見えて増加するようなことはないだろう」「もし起こるとすれば、ヒトの生存にちょっとマイナスな形質が少しずつ増え、何世代かあとに気がつくと、人類全体の資質が少し低下してしまったり、出生率が低下してしまう、というようなストーリーではないか」といった議論を延々と夜まで交わしたものである。この当時は誰もが、somatic mutation と heritable mutation の両者が化学物質によって同じように誘発されると考えていた。したがって、in vivoの試験は重要で、特に生殖細胞を指標とするマウス優性致死試験やショウジョウバエの伴性劣性致死試験(両試験とも放射線の突然変異研究に汎用されていた)を化学物質でも実施すべきということでお開きになった。
ところが1973年にAF-2の突然変異誘発性の結果が報告され、これを受けてProf. Ames が検出感度のより高い新菌株を作成したことが報告された。がん原物質のスクリーニングとしてAmes test の有用性に、いち早く着目されたのが国立がんセンターの杉村隆先生であった。Ames test と S9 mixによる代謝活性化法が組み合わされた試験法で、各種化学物質の試験結果が次々と報告された。さらに、somatic mutationががん化のinitiationであるという、多段階発がん説が出るに及んで、発がん研究に携わる医学、薬学、生化学分野の研究者がJEMSに参加されるようになり、遺伝毒性研究の方向性はsomatic mutationへと大きくシフトしていった。
一方、heritable mutationは、ごく限られた特定の化合物でしか検出されず、somatic mutation のようには誘発されないことが次第に明らかになってきた。1988年5月のJEMS の第1回公開シンポジウムで私がオルガナイザーとして、「環境変異原による遺伝的障害を考える ―ショウジョウバエからヒトまで―」を企画した。生殖細胞を標的とするこれらの試験は、実験規模も大きく専門の知識を必要とすることから、1990年以降は殆ど実施されなくなって、学会におけるheritable mutation 研究の存在感は低下した。
3-6.学会とガイドライン
学会の研究活動の中で、産・官・学の意見が割れたのが規制毒性学(regulatory toxicology)についてであった。1980年代に入ると、医薬、農薬、食品等の毒性試験ガイドラインが次々に公布された。官・学の研究者の中にはガイドラインの作成に積極的に関与される方がおられる一方、学の中には規制科学に関心がなく、学会の場でガイドラインを論じるのを良しとしない意見も多くあった。そのため、1980年代前半までは、ガイドラインがらみの議論は研究会の中でのみしかできなかった。このような現象は、JEMSのみならず、当時の毒性関連学会では共通の問題であった。しかし、次第に規制毒性学への認識が改められ、1984年の本学会公開シンポジウム「変異原性試験に関連する規制と諸問題」が突破口となり、以降、学会でのトピックスとしてしばしば取り上げられ、活発な議論が展開されるようになり今日に至っている。1990年代に入ると、OECDの毒性試験ガイドラインや、医薬品のICHが始まり、否応なく国際化の波に対応することになる。ここで、医薬品のガイドラインについて解説しておこう。ガイドラインは「薬事法に基づく行政指導の一つで、指針として自由度を与え、原則を示すことがのぞまれる」と位置付けられる。行政指導はその拘束力によって、下の4つに分けられる。
方 針:趣旨に沿えばよく、具体的な方法に制約されない。
手引き:従うことが望まれるが、制約されない。
原 則:理由がない限り、従わねばならない。
規 則:書かれていることには、従わねばならない。
ガイドラインは、この「原則」に相当し、正当な理由があれば、必ずしもガイドラインに記された方法に従わなくても良いことを意味している。
4. 国際化のうねり
JEMS 発足の翌年1973年には、米欧日の3学会よりなるICEM (International Conference of Environmental Mutagen) の第1回が米国で開催され、4年おきに回り持ちで開催されることになった。 3rd ICEM は1981年に東京で開催され、京都ではSatellite Symposium が行われた。Stockholm での4th ICEM には、Satellite Symposiumへの参加も含めた北欧を巡るツアーを学会が組んで、30名近くの会員が参加した。1990年代に入ると、医薬品について「薬事規制の調和のための国際会議」(International Conference on Harmonisation of Technical Requirement for Registration of Pharmaceuticals for Human Use, ICH)、やOECDの化学物質の毒性ガイドライン、あるいは「国際染色体異常シンポジウム(ISCA)、國際遺伝毒性ワークショップ(IWGT)等々、21世紀を見据えた国際的なガイドライン制定の動きが加速することになる。
おわりに
本学会が発足する2年前、私は国立研究機関でのヒト染色体研究という恵まれた環境から、当時としては未知の分野の薬物の遺伝毒性の研究に転身することにした。しかも、研究の場が民間製薬企業となることは、当時36歳の私にとっては全く想定外のことであった。研究テーマと研究の場の転換は、私にとって極めて大きな冒険であった。
しかし、幸いなことに、1970年8月から取り組んだ種々の変異原性試験について、試験方法の導入・確立を成し遂げることができた。振り返ってみると、私の遺伝毒性研究は本学会と共に歩んできたと言っても過言ではない。この間、極めてささやかではあるが、本学会の発展のお手伝いにも参加し、私を育てて頂いた恩返しも少しはできたのではないかと信じている。
これからの本学会を担う会員、特に若い会員の皆様へ。
本学会は大きな転換点を迎えている。ゲノム研究とどう向き合い、吸収して、今後の遺伝毒性研究を如何に発展させて行くか。また、学会名の改称問題も控えている。大きな決断に迫られる場も生じるであろうが、皆様方の勇気ある行動を期待している。
最後に、遺伝毒性についてご指導・ご助言を賜った本学会の諸先生、並びに私の研究にご協力頂いた、社内外の先輩・同僚の方々に衷心より御礼申し上げる。
本稿作成において、校閲並びに数々のご助言を頂いた、JEMS広報委員会の本田大士、鈴木孝昌、増村健一会員に深謝する。
文献
1) 菊池康基,1968. 遺伝. 22,No. 4:542) 田島彌太郎,1981. ダイヤモンド社.「環境は遺伝にどう影響するか」
Appendix.1970年代から1980代にかけて行われた変異原性試験
- 染色体異常試験(Chromosome aberration test) 細胞遺伝学的試験ともいう。細胞の分裂中期における染色体異常を観察する試験。げっ歯類に被験物質物質を投与し、骨髄細胞あるいは精原細胞などで染色体異常を観察する in vivo 試験と、培養細胞を用いる in vitro 試験がある。
- 優性致死(突然変異)試験(Dominant lethal mutation test) 雄マウスに被検物質を投与し、無処理メスと交配する。減数分裂終了後に雄の生殖細胞(精原細胞~精子)に生じた染色体異常は、受精後に胚の初期死亡および不着床を引き起こすので、これを指標とする。減数分裂前の精原細胞および精母細胞に染色体異常が生じた場合には、減数分裂の過程で死滅して精子数の減少をきたし、不妊あるいは不受精卵が増加する。この妊性の低下も優性致死試験の指標の一つとなる。本試験は化学物質の遺伝毒性を評価する in vivo 試験として、1960年代から1980年代にかけて強く推奨されていた。しかし、使用するマウスの数が多く試験規模も大きく試験期間も長くて、実験動物愛護の面から好ましい試験とは言えないことなどから、1990年代以降にはあまり実施されなくなった。
- 宿主経由試験(Host mediated assay) マウスなどの宿主動物の腹腔内に試験用の微生物を注入したのち、宿主に被検物質を投与し、一定時間後に腹腔より回収した試験菌の突然変異頻度を調べる試験。哺乳類の代謝物の変異誘発性を調べることができる試験として、1970年代に推奨されていたが、その後 微生物を用いる in vitro 試験にS9 mix が汎用されるようになると、手法の難しさ、データの再現性や精度の低さなどから実施されなくなった。
- 小核試験(Micronucleus test) 小核試験は1973年にHeddle と Schmid によってそれぞれ独立して開発された試験である。染色体異常を直接観察する代わりに、染色体切断や紡錘体機能の阻害作用の結果形成される小核を観察することによって、染色体異常誘発能を推定する方法である。1980年代には、被検物質を投与したマウスの骨髄あるいは末梢血の塗抹標本で、赤血球中の小核の出現頻度を調べる方法がとられた。
- レックアッセイ(rec - assay) 枯草菌を用いて化学物質のDNA損傷性を検出する試験系。枯草菌にはDNA損傷に対し、組換え修復能を有する野生株と修復欠損株があり、欠損株はその生育が強く阻害される。したがって、野生株に比べて欠損株の生育を著しく阻害する化学物質はDNAに損傷を与えていることを示す。この方法は賀田恒夫博士(遺伝研)が開発されたこともあり、1980年代までわが国で汎用された。
- 復帰突然変異試験(Reverse mutation test) 微生物を用いて化学物質によって誘発された復帰突然変異を検出する試験。試験菌株としては、1960年代は大腸菌が用いられていた。その後、B. N. Ames 博士(カリフォルニア大)が1971年に試験菌株として開発したサルモネラ菌TA1535、TA1537、TA1538と、1975年に開発された高感度の新菌株TA98, TA100とを用いる方法がAmes Test として、代謝活性化系S9 mix と組み合わせて試験されるようになった。